カナダの学校では、なぜいじめが起こりにくいのでしょうか。その理由の一つとして、カナダ式の多文化教育が生み出す相互尊重の文化があげられます。私自身、2001年から2005年までバンクーバーでの生活経験と、息子の国際バカロレア認定校である米国基準のインターナショナルスクールでの様子を通じて、その特色を間近で観察してきました。息子の学校では、異なる文化的背景を持つ同級生たちが、お互いの違いを当たり前のものとして受け入れ、それを学びの機会として活用している様子を目にします。
カナダは1971年に世界で初めて多文化主義政策を正式に採用した国です。この政策は単なる理念に留まらず、教育現場においても具体的な取り組みとして実践されています。多文化教育は、異なる背景を持つ生徒たちが共に学ぶ環境において、相互理解と尊重を育むための重要な仕組みです。
日本の公立校で英語に苦手意識を持つ方も多いかもしれませんが、実際は英語より日本語の方が言語構造として複雑であり、日本語を習得している時点で、誰にでも英語を学ぶ素質があります。インターナショナルスクールは「英語を学ぶ場所」ではなく「英語で学ぶ場所」ですが、重要なのは言語能力よりも、多様性を受け入れる心の準備なのです。
多文化教育の基盤:違いを力に変える仕組み
カナダの多文化教育は、表面的な文化紹介にとどまりません。むしろ、生徒一人ひとりの文化的アイデンティティを尊重しながら、共通の学習目標に向かって協力する環境を作り出すことに重点を置いています。これは問題が起こらないということではありません。多様な背景を持つ生徒が集まれば必ず誤解や対立は生じますが、それに対してどのような仕組みで未然に防ぎ、万が一起きた時にどう対応するかが整備されているからこそ安心できるのです。
包括的なカリキュラム設計
カナダの学校では、歴史、文学、科学、芸術などすべての教科において、多様な文化的視点が組み込まれています。たとえば、世界史を学ぶ際には、西欧中心の視点だけでなく、アジア、アフリカ、先住民の視点からも同じ出来事を検討します。息子の学校でも、第二次世界大戦について学ぶ際、日系カナダ人の強制収容について議論する授業がありました。このような取り組みにより、生徒たちは単一の「正しい」歴史ではなく、複数の視点が存在することを自然に理解するようになります。
数学や科学の授業でも、異なる文化圏で発達した計算方法や発見の歴史を取り入れることで、知識が特定の文化に独占されるものではないことを示しています。このようなアプローチは、どの生徒にとっても「自分の文化も価値がある」という自信を育てます。マニトバ州(カナダの中部に位置する州)の多文化教育政策では、すべての生徒が自分の文化的背景に誇りを持ちながら、他の文化も理解できるよう支援することが明記されています。
文化的多様性を活かした学習環境
カナダの教室では、生徒の文化的背景の違いを問題として捉えるのではなく、学習を豊かにする資源として活用します。アンガス・リード研究所(カナダの世論調査機関)の2022年の調査によると、文化的に多様な学校環境にいる生徒は、カナダの歴史、先住民の条約、住宅学校制度、そして多文化主義について学ぶ機会が多いことが分かっています。
プロジェクト学習では、異なる文化的背景を持つ生徒同士がチームを組み、それぞれの知識や経験を持ち寄って課題に取り組みます。息子のクラスでは、環境問題について調べる際、中国系の生徒が中国の環境政策について、インド系の生徒が伝統的な水資源管理について、それぞれ家族から聞いた情報を共有していました。このような経験を通じて、生徒たちは「違い」が「強み」になることを体感します。
ブリティッシュコロンビア州(カナダ西部の州、バンクーバーがある)では、包括的教育(すべての生徒を同じ教室で学ばせる教育方針)の理念のもと、英語学習者(ELL: English Language Learners、母語が英語でない生徒)への支援も、分離ではなく統合の方向で行われています。これにより、言語的多様性も学習資源として活用されています。
教師の文化的対応力向上
多文化教育の成功には、教師の準備と継続的な研修が不可欠です。カナダでは教師が文化的に対応力のある指導法(Culturally Responsive Teaching、生徒の文化的背景を考慮した教育手法)を身につけるための専門的な研修制度が整備されています。これには、自分自身の文化的偏見を認識し、生徒の文化的背景を理解し、それを授業に積極的に取り入れる技術が含まれます。
教師は生徒の名前を正しく発音することから始まり、各生徒の家庭の価値観や学習スタイルを理解しようと努めます。また、保護者とのコミュニケーションにおいても、文化的な違いを考慮したアプローチを取ります。必要に応じて通訳サービスを利用し、すべての保護者が子どもの教育に参加できるよう配慮しています。
ブランドン大学(カナダ・マニトバ州の大学)の研究によると、文化的に対応力のある自己調整学習フレームワーク(CR-SRL: Culturally Responsive Self-Regulated Learning、生徒の文化的背景を考慮した自主学習支援手法)を活用した教師は、多文化クラスルームにおいて生徒の学習意欲を大幅に向上させることができると報告されています。これは、生徒が自分の文化的アイデンティティを大切にしながら学習に取り組めるためです。
実践的な相互尊重プログラム
理論だけでは相互尊重は育ちません。カナダの学校では、日常的な実践を通じて、生徒たちが自然に多様性を受け入れ、尊重する態度を身につけられるよう工夫されています。重要なのは、すべてが完璧に進むわけではないということです。文化的な誤解や対立は必ず起こりますが、それに対して適切な対応策が用意されており、問題を学習機会に変える仕組みがあるからこそ万全なのです。
社会情緒学習(SEL)との統合
社会情緒学習(Social Emotional Learning: SEL、感情の理解と管理、対人関係の構築、責任ある意思決定などを学ぶ教育手法)は、生徒が感情を理解し、対人関係を築き、責任ある決定を下すスキルを育てる教育手法です。カナダの多文化教育では、このSELが重要な役割を果たしています。生徒たちは、自分の感情を理解するだけでなく、異なる文化的背景を持つ同級生の感情や反応も理解しようと学びます。
CASEL(学術・社会・情緒学習協会、SELの推進を行う米国の非営利組織)の研究によると、SELプログラムは学業成績を平均11パーセンタイル向上させるだけでなく、親切さ、共有、共感などの向社会的行動を促進し、うつ病やストレスを軽減することが分かっています。多文化環境では、これらの効果がさらに重要になります。
たとえば、ある生徒が宗教的な理由で特定の活動に参加できない場合、クラス全体でその理由を理解し、代替案を考える機会を設けます。このプロセスを通じて、生徒たちは「違いを受け入れる」だけでなく、「違いに配慮した解決策を見つける」スキルを身につけます。これは将来、グローバルな職場で異なる文化的背景を持つ同僚と協働する際に不可欠な能力となります。
紛争解決と仲介技術
多様な背景を持つ生徒が集まれば、当然ながら誤解や対立も生じます。重要なのは、そうした問題が起きたときの対応です。カナダの学校では、生徒自身が紛争を解決する技術を身につけられるよう、体系的な指導を行っています。
ピア・メディエーション(同級生による仲裁、訓練を受けた生徒が対立する同級生の間を仲裁する制度)プログラムでは、訓練を受けた生徒が、対立している同級生の間に入って解決を支援します。このプログラムでは、文化的な違いが原因となった誤解についても、当事者同士が互いの視点を理解し合えるよう導きます。カナダ公共安全省(Public Safety Canada、カナダの治安維持を担当する政府機関)の研究によると、このような取り組みは学校全体のいじめを20~70%減少させる効果があることが分かっています。
特に重要なのは、文化的な違いから生じる誤解を「悪意のない間違い」として扱い、教育機会に変換することです。たとえば、ある文化では直接的な目線を避けることが敬意の表れであるのに対し、別の文化では目を合わせることが誠実さの証とされます。このような違いが原因で生じた誤解は、両者が互いの文化的背景を学ぶ機会として活用されます。
バイスタンダー教育プログラム
いじめや差別的な言動を目撃した際に、傍観者(バイスタンダー、その場にいるが直接関与していない人)がどのように行動すべきかを教えるプログラムも重要な要素です。カナダの学校では、生徒が人種や文化に基づく嫌がらせを目撃した場合の対応方法を具体的に指導します。
単に「いじめはいけない」と教えるのではなく、実際の場面でどのような言葉をかけ、どのような行動を取るべきかを、ロールプレイを通じて練習します。また、直接介入することが困難な場合には、信頼できる大人に相談する方法も教えます。このような教育により、学校全体で差別やいじめを許さない雰囲気が形成されます。
アンガス・リード研究所の調査では、カナダの子どもの約半数が学校で人種・民族に基づくいじめを目撃したことがあると報告されています。しかし、適切なバイスタンダー教育を受けた生徒は、そうした場面で効果的に介入できることが分かっています。これは、多文化教育が単なる理想論ではなく、実際の問題解決に役立つ実践的なスキルを提供していることを示しています。
長期的な効果:グローバル市民としての成長
カナダ式多文化教育の真の価値は、短期的ないじめの減少だけでなく、生徒たちが将来にわたって多様性を力に変えられる人材として成長することにあります。しかし、この過程は常に順調ではありません。生徒によっては家庭の価値観との違いに戸惑ったり、自分のアイデンティティについて混乱したりすることもあります。重要なのは、そうした課題に対してもカウンセラーや文化的メンターが継続的にサポートし、生徒が自信を持って成長できる環境が整備されていることです。
批判的思考力の育成
多文化教育を受けた生徒は、複数の視点から物事を考える習慣を身につけます。これは、将来の職業生活や市民としての参加において極めて重要なスキルです。グローバル化が進む現代社会では、異なる文化的背景を持つ人々と協働する機会が増えており、こうした能力は必須となっています。
息子の学校では、高学年になると、実際の社会問題について複数の立場から議論する授業が頻繁に行われます。たとえば、移民政策について議論する際には、移民を受け入れる側の住民、新しく到着した移民、政策立案者など、それぞれの立場から問題を検討します。このような学習を通じて、生徒たちは簡単な答えのない複雑な問題に対しても、建設的な対話ができるようになります。
スプリンガー社(ドイツの学術出版社)から出版された多文化教育に関する研究書では、カナダの多文化教育が生徒の批判的思考力向上に大きく貢献していることが報告されています。特に、トロント、バンクーバー、モントリオールといった多文化都市の学校では、生徒が複雑な社会問題について多角的に分析する能力が顕著に向上しているとされています。
文化的知性の向上
文化的知性(Cultural Intelligence、異なる文化的状況において効果的に機能できる能力)とは、異なる文化的状況において効果的に機能できる能力のことです。カナダの多文化教育を受けた生徒は、文化的な違いを敏感に察知し、適切に対応する能力が高いことが研究で示されています。
これは単に「礼儀正しく振る舞う」ということではありません。相手の文化的背景を理解した上で、効果的なコミュニケーションを取り、共通の目標に向かって協力できる能力です。このような能力は、国際的なビジネス環境や学術研究の場において、カナダの多文化教育を受けた人材が高く評価される理由の一つとなっています。
ブリティッシュコロンビア大学(University of British Columbia、バンクーバーにあるカナダ有数の研究大学)の研究では、多文化クラスルームで学んだ生徒が、文化的に対応力のある自己調整学習能力を身につけ、異文化間でのコミュニケーション能力が格段に向上することが報告されています。これは、子どもの将来のキャリア形成において大きなアドバンテージとなります。多文化教育で育つ文化的知性は、グローバル人材として必須の能力なのです。
社会正義への意識
多文化教育は、生徒たちに社会正義への意識も育てます。自分自身が尊重される経験を持つ生徒は、他者の権利も尊重する傾向があります。また、差別や偏見がどのような形で現れ、どのような害をもたらすかを学ぶことで、将来そうした問題に立ち向かう意欲も育ちます。
カナダの学校を卒業した生徒の多くが、職場や地域コミュニティにおいて多様性と包含(Diversity and Inclusion、多様な背景を持つ人々が平等に参加できる環境づくり)の推進役となっているのは、こうした教育の成果と考えられています。彼らは単に多様性を「受け入れる」だけでなく、積極的に「活用」し、より良い社会を作るために行動できる人材として成長しています。
オンタリオ州(カナダ東部の州、トロントがある)の市民権・多文化主義省(Ministry of Citizenship and Multiculturalism)は、多文化教育を受けた若者が将来的に反人種差別や反憎悪の取り組みにおいて重要な役割を果たすことを期待しており、そのための支援プログラムも展開しています。これは、多文化教育が単なる学校内の取り組みではなく、社会全体の未来への投資であることを示しています。
もちろん、カナダの多文化教育にも課題はあります。地域により実施状況に差があることや、先住民の権利との関係において複雑な問題も抱えています。また、すべての生徒が同じペースで多文化的な価値観を受け入れるわけではなく、家庭の価値観との相違により困惑する生徒もいます。しかし、こうした課題に対しても、教育現場では継続的な改善努力が続けられています。
重要なのは、問題が起きることを前提として、それにどう対応するかの仕組みを整えていることです。生徒が困惑や不安を感じた際には、カウンセラーや文化的メンターが支援し、家族とも連携を取りながら解決策を見つけます。バンクーバー多文化協会(Vancouver Multicultural Society、1974年設立のブリティッシュコロンビア州で最も歴史のある多文化推進団体)などの地域組織も、学校と協力して包括的なサポート体制を提供しています。このような多層的なサポート体制があるからこそ、多文化教育は「理想論」ではなく「実現可能な教育手法」として機能しているのです。
日本のインターナショナルスクールにおいても、こうしたカナダ式の多文化教育の要素を取り入れることで、いじめの少ない学習環境を構築することが可能です。英語に自信がない保護者の方も、言語能力以上に重要な「多様性を受け入れる心構え」を理解していただければ、お子さまにとって豊かな学習機会を提供できるでしょう。多文化共生の理念を実践する教育環境は、お子さまの未来を大きく広げる可能性を秘めています。
参考文献:
¹ Government of Canada. (2024). Canadian Multiculturalism Act. Department of Canadian Heritage.
² Angus Reid Institute. (2022). Diversity and Education: Half of Canadian kids witness ethnic, racial bullying at their school. Vancouver: ARI.
³ University of British Columbia. (2021). School ethnic composition and bullying in Canadian schools. Journal of School Violence, 15(3), 287-308.
⁴ Anyichie, A. C., & Butler, D. L. (2017). Supporting all learners’ engagement in a multicultural classroom using a culturally responsive self-regulated learning framework. Educational Psychology Review, 29(4), 823-852.
⁵ CASEL. (2024). Fundamentals of SEL: Social and emotional learning research and practice. Chicago: Collaborative for Academic, Social, and Emotional Learning.
⁶ Public Safety Canada. (2005). Bullying prevention in schools: A summary of program evaluations. National Crime Prevention Centre.
⁷ Government of British Columbia. (2024). Inclusive education resources. Ministry of Education and Child Care.
⁸ Government of Manitoba. (2024). Multicultural Education: A Policy for the 1990’s. Manitoba Education and Early Childhood Learning.
⁹ Springer International Publishing. (2021). Multicultural Education in Canada. Educational Research and Innovation Series.
¹⁰ Government of Ontario. (2024). Ministry of Citizenship and Multiculturalism: Published plans and annual reports 2023-2024.



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