デザイン思考教育における共感力の基盤
従来の日本の学校教育では、知識の暗記や正解を導き出すことに重点が置かれてきました。しかし、インターナショナルスクールで実践されているデザイン思考教育では、まったく異なるアプローチが取られています。その中核となるのが「共感力」という、相手の立場に立って物事を理解する能力です。
共感力とは何か:従来の理解を超えて
共感力は単に「相手の気持ちを理解すること」ではありません。デザイン思考における共感とは、相手のニーズ、欲求、行動の背景にある動機を深く理解し、その人の視点から世界を見ることを意味します¹。
スタンフォード大学のデザイン学部(d.school)が開発したデザイン思考のプロセスでは、共感(Empathize)が最初のステップとして位置づけられています²。これは偶然ではありません。真に革新的な解決策は、人々の本当の問題を理解することから始まるからです。
息子の学校では、小学3年生の授業で「学校の清掃員の方の一日を観察する」というプロジェクトがありました。子どもたちは清掃員の方に同行し、どのような作業をしているか、どんな困りごとがあるかを観察します。その結果、子どもたちは「もっと効率的な清掃方法」や「清掃を楽にする道具」を考案するようになります。これは単なる観察ではなく、相手の立場に立って問題を発見する共感力の育成なのです。
日本の教育システムとの本質的な違い
日本の従来の教育では、教師が問題を提示し、生徒がその解答を見つけるという一方向的な学習が主流でした。しかし、デザイン思考教育では、学習者自身が問題を発見し、定義することから始まります³。
ハーバード大学教育大学院の研究によると、問題解決能力を真に身につけるためには、まず「正しい問題」を見つける能力が必要だとされています⁴。そして、正しい問題を見つけるためには、関係者の視点を理解する共感力が不可欠なのです。
日本の学校では、多くの場合「答えのある問題」を扱います。数学の方程式、歴史の年号、英語の文法など、明確な正解が存在する分野です。一方、デザイン思考で扱う問題は「答えのない問題」、つまり複数の解決策が存在し、状況や関係者によって最適解が変わる問題です。
実社会での共感力の重要性
現代のビジネス環境では、技術的なスキルと同じかそれ以上に、人間関係を構築し、多様な視点を理解する能力が求められています。世界経済フォーラムの「Future of Jobs Report 2023」では、2027年までに最も重要になるスキルの上位に「創造的思考」「分析的思考」と並んで「レジリエンス、柔軟性、敏捷性」が挙げられており⁵、これらはすべて共感力と密接に関連しています。
グーグルの人材開発担当者ラズロ・ボック氏は、同社で最も成功している従業員の特徴として「学習意欲」「リーダーシップ」「謙虚さ」「共感力」を挙げています⁶。特に共感力については、チームワークを促進し、ユーザーのニーズを理解する上で欠かせない能力だと述べています。
人間理解を深める教育手法
インターナショナルスクールでは、共感力を単なる概念として教えるのではなく、具体的な体験を通じて身につけさせる教育手法が採用されています。これらの手法は、従来の日本の教育では見られない特徴的なアプローチです。
観察とインタビューによる深い理解
デザイン思考の初期段階では、対象となる人々を注意深く観察し、インタビューを行うことが重要視されます。これは単なる質問応答ではなく、相手の言葉の背後にある真意を理解しようとする深いコミュニケーションです⁷。
IDEO(アイデオ)という世界的なデザインコンサルティング会社が開発した手法では、「5つの理由(5 Whys)」という技術が用いられます⁸。これは、相手の発言に対して「なぜ?」を5回繰り返すことで、表面的な要求の背後にある本当のニーズを発見する方法です。
例えば、息子のクラスでは「学校の図書館をより良くする」というプロジェクトがありました。最初に図書館司書の方にインタビューしたとき、「もっと静かな環境が欲しい」という要望がありました。しかし、「なぜ静かな環境が必要なのですか?」「なぜ今は静かではないのですか?」と質問を重ねていくうちに、実は「異なる目的で図書館を利用する人たちのニーズが混在している」という根本的な問題が見えてきました。
ペルソナ作成による具体化
共感力を育成するもう一つの手法が、ペルソナ(架空の人物像)の作成です。これは、観察やインタビューで得た情報を基に、具体的な人物像を作り上げる作業です⁹。
ペルソナ作成の過程では、年齢、職業、家族構成といった基本情報だけでなく、その人の価値観、恐れ、夢、日常的な行動パターンまで詳細に設定します。これにより、抽象的だった「ユーザー」が具体的な「一人の人間」として理解できるようになります。
カリフォルニア大学バークリー校の認知科学研究によると、具体的な人物像を思い浮かべることで、人間の脳はより深いレベルでの理解と記憶を形成することが明らかになっています¹⁰。これは、ペルソナ作成が単なる設計技法ではなく、共感力そのものを高める教育手法である理由を説明しています。
多文化環境での視点の多様性
インターナショナルスクールの大きな特徴の一つは、多様な文化的背景を持つ生徒たちが一つの教室で学ぶことです。この環境は、自然に共感力を育成する最適な場となっています。
文化人類学者のエドワード・ホール氏が提唱した「高コンテクスト文化」と「低コンテクスト文化」の概念¹¹は、この多文化環境での学習の重要性を説明しています。日本のような高コンテクスト文化では、言葉に表れない部分でのコミュニケーションが重要ですが、アメリカやドイツのような低コンテクスト文化では、明確な言葉での表現が重視されます。
このような異なる文化的背景を持つ子どもたちが一緒に学ぶことで、「同じ状況でも人によって感じ方や考え方が違う」ということを自然に理解できるようになります。これは、教科書では学べない生きた共感力の育成につながります。
将来社会で活かされる問題解決能力
デザイン思考教育で培われる共感力は、単なる人間関係のスキルを超えて、将来の社会で必要とされる問題解決能力の基盤となります。変化の激しい現代社会では、正解のない問題に対処する能力がますます重要になっています。
創造的問題解決への応用
共感力を基盤とした問題解決は、従来の論理的アプローチとは異なる創造的な解決策を生み出します。マサチューセッツ工科大学(MIT)の研究では、共感的思考を用いたチームは、従来の分析的アプローチを用いたチームよりも、より革新的で実用的な解決策を提案することが示されています¹²。
デザイン思考では、問題解決のプロセスが直線的ではありません。共感→定義→発想→試作→検証という5つの段階を行き来しながら、徐々に解決策を磨き上げていきます¹³。この反復的なプロセスは、失敗を恐れずに試行錯誤を続ける姿勢を育成します。
日本の従来の教育では、「一度で正解を出す」ことが重視されがちです。しかし、実社会の問題は複雑で、最初から完璧な解決策を見つけることは稀です。デザイン思考教育では、「失敗は学習の機会」という考え方が根付いており、子どもたちは試行錯誤を通じて成長することを学びます。
チームワークとリーダーシップの発達
共感力は個人のスキルでありながら、チームでの協働において威力を発揮します。相手の視点を理解できる人は、チーム内の多様な意見を調整し、全員が納得できる解決策を見つけることができます。
ハーバード・ビジネス・スクールの研究によると、高い共感力を持つリーダーは、チームのパフォーマンスを向上させ、メンバーの満足度も高めることが明らかになっています¹⁴。これは、共感力がリーダーシップの重要な要素であることを示しています。
息子のクラスでは、グループプロジェクトの際に「プロジェクトマネージャー」を交代で務める制度があります。これは単なる役割分担ではなく、異なる視点や意見を持つメンバーをまとめる経験を積むためです。プロジェクトマネージャーになった子どもは、他のメンバーの強みや関心を理解し、それぞれが貢献できる役割を見つける必要があります。
グローバル社会での適応能力
現代のビジネス環境では、異なる文化的背景を持つ人々との協働が日常的になっています。このような環境で成功するためには、文化的な違いを理解し、適応する能力が不可欠です。
世界銀行の報告書「The Changing Nature of Work」では、グローバル化とデジタル化が進む中で、「文化的知性(Cultural Intelligence)」が重要なスキルとして位置づけられています¹⁵。文化的知性とは、異なる文化的背景を持つ人々と効果的に交流し、協働する能力のことです。
デザイン思考教育で育成される共感力は、この文化的知性の基盤となります。相手の立場に立って考える習慣は、文化的な違いを理解し、橋渡しをする能力につながります。
インターナショナルスクールで学ぶ子どもたちは、日常的に多様な文化的背景を持つ友人たちと接することで、自然にこの能力を身につけていきます。これは、将来グローバルな環境で活躍するための貴重な準備期間となります。
また、デザイン思考のアプローチは、言語や文化の違いを超えて問題解決に取り組む際の共通言語としても機能します。視覚的なツールやプロトタイプを使った議論は、言葉の壁を越えてアイデアを共有することを可能にします。
このように、インターナショナルスクールのデザイン思考教育で培われる共感力は、子どもたちが将来直面するであろう複雑で多様な問題に対処するための基盤を提供します。それは単なる学習スキルではなく、人間として成長し、社会に貢献するための重要な能力なのです。
引用元:
¹ Brown, T. (2009). Change by Design: How Design Thinking Transforms Organizations and Inspires Innovation. HarperBusiness.
² d.school Stanford University. Design Thinking Process Guide. Stanford University Press.
³ Razzouk, R., & Shute, V. (2012). What is design thinking and why is it important? Review of Educational Research, 82(3), 330-348.
⁴ Harvard Graduate School of Education. (2019). Problem Finding in Creative Problem Solving. Harvard Educational Review.
⁵ World Economic Forum. (2023). Future of Jobs Report 2023. Geneva: World Economic Forum.
⁶ Bock, L. (2015). Work Rules!: Insights from Inside Google That Will Transform How You Live and Lead. Twelve Books.
⁷ Kumar, V. (2012). 101 Design Methods: A Structured Approach for Driving Innovation in Your Organization. Wiley.
⁸ IDEO. (2015). The Field Guide to Human-Centered Design. IDEO.org.
⁹ Cooper, A. (2004). The Inmates Are Running the Asylum: Why High Tech Products Drive Us Crazy and How to Restore the Sanity. Sams Publishing.
¹⁰ University of California Berkeley. (2018). Cognitive Science and Design Thinking. Berkeley: UC Press.
¹¹ Hall, E. T. (1976). Beyond Culture. Anchor Books.
¹² Massachusetts Institute of Technology. (2020). Innovation and Empathic Design. MIT Sloan Management Review.
¹³ Plattner, H., Meinel, C., & Leifer, L. (2011). Design Thinking: Understand – Improve – Apply. Springer.
¹⁴ Harvard Business School. (2019). The Role of Empathy in Leadership Effectiveness. Harvard Business Review.
¹⁵ World Bank. (2019). The Changing Nature of Work: World Development Report 2019. Washington, DC: World Bank.



コメント